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完全フィクション
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十字架が好きだ。
 
別に私はキリスト教徒とかではない。あの十字架という形と、業を背負うと言う人間の原罪に、どこか形として持っていなければならないと言う無意識下の・・・。いや、やめよう。多分、理屈とかじゃなくて、本能的に好きなのだと思うから。
 
しかしながら同じように惹かれている人なんかも全員ひっくるめて、中二病扱いされるのはいただけない(笑)いや、本能的に好きだとか言ってること自体が中二病なのかもね。自分で自覚していないだけで。
 
もしかしたら日本人特有の八百万の神を祀る神道に基づく日本文化の、どっちつかずな曖昧宗教感から、そういったものを好む事に対しての中二病と言う批判的な例え方に当てはまる要素があるのかもしれないし。
 
世界中で言われている事だよね。年末、人生の終わりには仏教、年始には神道、クリスマスはキリスト教。節操が無いって。あれ?ハロウィンは宗教関係無いんだっけか。
 
十字架をモチーフにしている作品やアーティストなんかだってたくさんいる。最早表現方法の一つとして確立されてるぐらいに。でも、そんなこと関係なく十字架に惹かれているんだけれども、そういったたくさんの要素を否定するだけの説得力のある意見を、私は持ち合わせていない。
 
まあ他人から見た評価なんてそんなものなのだろうし。基本評価は主観に溢れたものだからね。平等に評価なんて、矛盾もいい所で。差別して順位を振り分ける事が評価と言う事なんだから。
 
結局の所、他人が評価するなんて事は全く関係無く、私個人自身が、心から十字架に惹かれているから。なんdねだろう?不思議だね。自分でも理由はわからないや。何となくどこかにルーツはあるんだろうけど。
 
あまり深く掘り下げると、輪廻転生とか出て来ちゃって、高尚だったりうさんくさかったりしてきてしまうから、その辺は掘り下げないでおこうかな(笑)
 
大体自分のアクセサリーなんかに十字架を用いている時点で、それほど高尚な捉え方はしていないはずだからね。あくまで自分が好きなだけで、ファッションとかモチーフとか、その程度の軽さでしかないのだから。
 
キリスト教信者の方には申し訳無いけれど、好きなんだから仕方が無い。それを罰するとかそういうことも出来ないのだろうから、どうかここは一つ寛大な御心で、許してね?(笑)
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「ああ、どうにも宇宙から見る地球なんて、感動するしかないじゃないか。」
 
私のパートナー、クルーである彼が言った。
 
「うん。確かにこの光景は、見たこと無い人にはわからない感動があるのかもしれない。」
 
思ったよりも鳥肌が立つほどに感動してない自分は、出来る限りそれを悟られないように、それでいて彼の感動を邪魔する事の無い様、努めて自分の感情を押し殺して、出来るだけ優しい笑顔を作りながら言った。
 
私たちは選ばれた。もちろん、その為の努力も長年惜しまなかった。専門的な知識をつけて、数々の実績を積んで、信用を得て、宇宙に送り出すに足ると判断されて、今まさにこの瞬間、宇宙空間を漂う宇宙船の中にいる。
 
Gのかかった地球脱出は、思ったよりも辛くなくて、『重いなあ』と思うだけで、それほど辛いと感じるものでもなかったし、宇宙空間の無重力は、思ったよりも自分に心地良く、フワフワと漂う事に快感すら感じていたのであった。
 
だから、宇宙から見る地球に感動するという事よりも、帰りたくないなあのと思う気持ちが本音で、またあの当たり前のように全人類に課せられている重力と言う重石をまた味わうのかと思うと、憂鬱な気持ちが頭をもたげてくるのであった。
 
「このまま、ここにいたいなあ。」
 
私がつぶやくと、
 
「それは僕だって同じさ。だけど、地球にいるみんなに伝えたい気持ちの方がはるかに勝ってるよ。」
 
興奮する彼の言葉に、私は笑顔で返した。それはもちろん、彼とは同じ考えではない事を悟られない為であり、今現在何とか帰らないでいられないかと非現実的な方法に思いを巡らせている事を悟られないようにする為でもあった。
 
私たちはみんな、宇宙人であり、地球人だ。
 
日々の戦争や争いごと、宗教や思想、主張の違いなど実にくだらない。どうあがいたって同じ生命体である事は逃れようの無い事実なのだから、黙ってそれを受け入れればいいと思う。
 
ましてや、傷付けあうなんてもってのほかだ。私たちは同じ仲間なのだから、共存してしかるべきだ。自分のエゴで他人を傷つけるなんて事は迷惑行為もいいところ、低レベルな愚考に過ぎない。だからといって、みんな滅んでしまえばいいとは、欠片も思わないけれど。
 
権力や財力、名声や暴力に捉われないこの空間が私は大好きだ。もしも重力という重石を課せられた地球上でも、そうあることが出来るのならば、きっと私は重力も好きになる事が出来るのかもしれない。
 
人間なんてみんな同じ立場なんだ。有限の。それを人の上に立ちたいとか、特別扱いして欲しいとか、傲慢にも程がある。みんな仲良くすればいいじゃないか。
 
しかしながら宇宙まで行かせてもらった私には義務と責任がある。えばりたい、実績を積みたい偉い学者や政治家のみなさんにも、興味のある仲間たち全員に恩返しをしなければならない。
 
繰り返すようだけど、私たちは同じ宇宙人で、地球人なのだから。
今日も今日とて、手首を刃物で切っている。
 
もちろん、切り落とすなんて事はするわけでも無く、うっすら血管なり肉なり肌なりが切れれば何でもいい。生きていることを確かめる為に、何てご大層な事も言わない。言い訳はしたくない。私はただ、生きていると言う生命の不思議を、何度も味わっているだけの話。
 
正直、死にたくも無ければ長生きしたいとも思っていない。もちろん、私以外の人が私と同じことをやっていたら全力で止めるし、絶対に同じ事をやって欲しくない。全力で止めるし、それは間違いだと説き伏せて説教もするだろう。
 
でも、自分の中の好奇心は止める事が出来ない。毎回心地良い何かを感じてしまっているし、きっと私の頭のネジはどこか飛んでいってしまってるのだと自分でも認識している。自覚と言えるかどうかはわからないけれど、きっと私は精神的な部分で何か欠陥のある病気なんだろうと思っている。
 
生命は大事だと思うし、軽率に扱うものではない。だからこそ、私以外の同じ行為は絶対に許せないと思う。理不尽かもしれないけれど、それが真理で、私の中の正論として確立している。
 
いつかはやめなければと思ってはいるものの、中毒になってしまっているのか、なかなかやめれないでいる。でも今の所誰かに話したことも、特に誰かに見せた事も無いから、私がこんなことをしているなんて誰も思っていないと思っている。それほど普段の私に病的な何かや暗いイメージが無いと、常日頃から言われているから。
 
人の誘いには絶対に断らずに乗っていくし、友達もたくさんいる。でもこれだけはやめられない。何でだろう。私にもわからないけれど、私は、そういう人間なのだと思う。
 
いつか誰かに知られた時に、私を全力で止めてくれるだろうけど、私はその時どうするかな。拒否するだろうか。受け入れるだろうか。何事も無かったようにやめる事が出来るのだろうか。
 
見つかって止められる事の想像がまず出来ないから、自分でもどうするかわからない。全く持って私は面倒な人間なのだなの自分でも思う。それでもやめられないのだから、私はきっと本当の意味で自分を理解してはいないのかもしれない。
 
傷跡に包帯を巻きながら、日課を終えて思慮を巡らせた後、何となく疲れてしまって、眠りに付くのであった。
ああ、そういえばもう夏なんだな。
 
クーラーの効いた部屋でそんなことをぼんやり考えていると、何の予定も無いこの週末に、怠惰にも床に、そしてベッドに、身体の位置を直しながら寝そべる姿に、何とも滑稽な苦笑と、自虐的な思いが頭の中を掠めては通り過ぎた。
 
もう少しすれば、この暑さも本格的に人々を苦しめる事になる。でもそれは同時に人々の喜びにもなったりするから、主観と言うものもどうにも滑稽で、それでいて日常に有り触れた不思議さを内包しているなあと、溢れ出ては消えていく思考の中に続けていった。
 
海やプールに行こうとも思わなくなり、『やっぱり家が一番ね』と言う、旅行帰りの母親のような思考展開が、怠惰なごろ寝に拍車をかける。
 
腹が減る事も無いのに、時間が来れば申し訳ない程度の食事を取って、思い付いたように運動してみたり、気が済めばまた睡眠では無い形で横たわってみる。
 
冷蔵庫にはスイカだの、麦茶だの、定番の夏の飲食を彩るものが入っているし、茶箪笥を開ければ乾物のそうめんが、まだ三束残っていたと思うが、今はただ、何もしたくない。
 
平日になればまた仕事が待っているし、特に驚きも新鮮さも無い毎日が待っているのだと思うと、ここで休まなければ、いつ休むんだよと、自問自答を繰り返しては虚空に消えていくのだ。
 
はあ、とため息も出て来ない。なぜならこの退屈が私にとって幸せに他ならないからだ。本当の幸せとは、当たり前の、日常に有り触れたささやかなものだと、常日頃思っている。例えば、私の日常を作品として形にするとしたら、これほどつまらないものも無いんじゃあないかとすら思えてくる。
 
それが悔しいとも悲しいとも私は思わないけれど。大半の人間は、凡人で、主人公で。真新しいことなどとうに経験しつくしてしまって、後は初体験の繰り返しなのだと、私は思う。
 
たまに神様が思い出したように、(別に私は特定の信教を持っているわけでもないが、)人生の大事件を巻き起こす事はあるけれど、終わってしまえば、大概が大したことは無かったと、笑って済ませられるようになる。
 
だからこそ、この何も無い不変の時間こそが、幸せなのだと、確信を持って思う。もちろん何か新しい事を経験したいと言う欲求が枯れ果てているわけでもないし、未だに何か面白い未経験のものがあれば、体験してみたりもしている。
 
でもそれは平和な日常ありきと思っているので、平穏が無ければ、刺激も楽しめないと思うのである。あーだこーだ考えてはみたものの、単純に、この退屈な時間が好きなのだ。私は。
昔、よく読んでいた小説を開いて、別に読むわけでもなくペラペラとページをめくってみる。

心の中に内容は入って来ていない。現状が暇だからだろうか。

何をしたいわけでもない。でも何一つ不満は無い。

少しづつ、少しづつ、組み立て直して。

過去も笑えるようになって。

上から塗りつぶし直していくんだね。

それが私の人生。

何一つ思い通りになんてなってないし、

昔思い描いていた未来とは全てが違うけれど。

受け入れよう。

それが私の人生なのだから。

大層な事を考えている様で、

実は誰もがいつでも思うような事を考えて、

眠気が訪れたら欲望に身を任せる。

そんな日常の中に幸せを見出していた。
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1987/01/14
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自己紹介:
夢人に付き合わされた哀れな若輩者
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