完全フィクション
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ああ、そういえばもう夏なんだな。
クーラーの効いた部屋でそんなことをぼんやり考えていると、何の予定も無いこの週末に、怠惰にも床に、そしてベッドに、身体の位置を直しながら寝そべる姿に、何とも滑稽な苦笑と、自虐的な思いが頭の中を掠めては通り過ぎた。
もう少しすれば、この暑さも本格的に人々を苦しめる事になる。でもそれは同時に人々の喜びにもなったりするから、主観と言うものもどうにも滑稽で、それでいて日常に有り触れた不思議さを内包しているなあと、溢れ出ては消えていく思考の中に続けていった。
海やプールに行こうとも思わなくなり、『やっぱり家が一番ね』と言う、旅行帰りの母親のような思考展開が、怠惰なごろ寝に拍車をかける。
腹が減る事も無いのに、時間が来れば申し訳ない程度の食事を取って、思い付いたように運動してみたり、気が済めばまた睡眠では無い形で横たわってみる。
冷蔵庫にはスイカだの、麦茶だの、定番の夏の飲食を彩るものが入っているし、茶箪笥を開ければ乾物のそうめんが、まだ三束残っていたと思うが、今はただ、何もしたくない。
平日になればまた仕事が待っているし、特に驚きも新鮮さも無い毎日が待っているのだと思うと、ここで休まなければ、いつ休むんだよと、自問自答を繰り返しては虚空に消えていくのだ。
はあ、とため息も出て来ない。なぜならこの退屈が私にとって幸せに他ならないからだ。本当の幸せとは、当たり前の、日常に有り触れたささやかなものだと、常日頃思っている。例えば、私の日常を作品として形にするとしたら、これほどつまらないものも無いんじゃあないかとすら思えてくる。
それが悔しいとも悲しいとも私は思わないけれど。大半の人間は、凡人で、主人公で。真新しいことなどとうに経験しつくしてしまって、後は初体験の繰り返しなのだと、私は思う。
たまに神様が思い出したように、(別に私は特定の信教を持っているわけでもないが、)人生の大事件を巻き起こす事はあるけれど、終わってしまえば、大概が大したことは無かったと、笑って済ませられるようになる。
だからこそ、この何も無い不変の時間こそが、幸せなのだと、確信を持って思う。もちろん何か新しい事を経験したいと言う欲求が枯れ果てているわけでもないし、未だに何か面白い未経験のものがあれば、体験してみたりもしている。
でもそれは平和な日常ありきと思っているので、平穏が無ければ、刺激も楽しめないと思うのである。あーだこーだ考えてはみたものの、単純に、この退屈な時間が好きなのだ。私は。
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