完全フィクション
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生まれ付き、私は自分が異常だと思っている。人と話すと自分の考えがいかに異端であるかを思い知ったし、家族にまで宇宙人と言われる始末。いつしか自分の本心を隠しながら生きる事に慣れて、特に自分の我を通さなくても、上手く折り合いをつけて生きて行く術を身に着けるまでに至った。
社会に出て色々な異端を見て来たけれど、みんな何かの真似事で、足を踏み入れればその世界の人数が多い事を知る。言うなればそれは異端でも何でも無く、一部のメジャーなのだ。異端気取りで得意げな顔をしている人間を見て、同じような人間がいくらでもいるのになあと、温かい目で見守るようになった。
異常者ぶってる人間はいるけど、本当の異常者は一握りだ。何故なら異常者である事で、この世界でまともに生きて行く事が出来ないからだ。だから自分を主張する為に異常者を気取る。自分だけは特別だと、口で言わなくても行動がそう見せている。誰もが凡人なのに特別を気取る。その光景はとても愉快だった。
異常に仕事に没頭する人間も、病的に趣味に没頭する人間も。覗いて見ればいくらでもいる。頂点ですらそれは個性足り得ないのだ。しかしそれは極々普通の事であり、当たり前の事であって、永遠に無限に新しい何かを別の誰かが生み出す事なんて出来やしない。時代の流れに乗って、踊らされて楽しんでいる人間の方が、私には幸せに見えた。わざわざ異常者ぶる必要なんて無いのだ。何の変哲も無い平和な人生で充分じゃないか。波乱万丈なんて聞こえは良いけど、要は不安定でしか無いのだ。そして安定する事が出来ない、と言う結論まで辿り着く。
そう言った経験や考察を重ねている内に気付いてしまった。
実は『普通』が一番難しくて、異端なのでは無いか。
犯罪者なんてただ自分の欲望が抑えきれないだけだし、地位や名誉や栄光なんてものは、言うなれば自己満足に過ぎない。キチガイじみた自分が本当に辿り着くべきは、誰もが頭に思い浮かべる『普通』の人生だったのだ。果たして、これが自称異端や異常者たちに出来るだろうか。普通ってなんだよと逆ギレするのが関の山だろう。
私は私好みの極々平凡な相手を見つけて、付き合う事にした。当たり前のことを当たり前にこなし、当たり前のように相手を大切にした。もちろん裏切るような真似なんてしなかったし、普通に喧嘩もしたが、平凡な家庭を築いて、そして平凡な一生を終えた。
究極の異端とは、普通だったのだ。
社会に出て色々な異端を見て来たけれど、みんな何かの真似事で、足を踏み入れればその世界の人数が多い事を知る。言うなればそれは異端でも何でも無く、一部のメジャーなのだ。異端気取りで得意げな顔をしている人間を見て、同じような人間がいくらでもいるのになあと、温かい目で見守るようになった。
異常者ぶってる人間はいるけど、本当の異常者は一握りだ。何故なら異常者である事で、この世界でまともに生きて行く事が出来ないからだ。だから自分を主張する為に異常者を気取る。自分だけは特別だと、口で言わなくても行動がそう見せている。誰もが凡人なのに特別を気取る。その光景はとても愉快だった。
異常に仕事に没頭する人間も、病的に趣味に没頭する人間も。覗いて見ればいくらでもいる。頂点ですらそれは個性足り得ないのだ。しかしそれは極々普通の事であり、当たり前の事であって、永遠に無限に新しい何かを別の誰かが生み出す事なんて出来やしない。時代の流れに乗って、踊らされて楽しんでいる人間の方が、私には幸せに見えた。わざわざ異常者ぶる必要なんて無いのだ。何の変哲も無い平和な人生で充分じゃないか。波乱万丈なんて聞こえは良いけど、要は不安定でしか無いのだ。そして安定する事が出来ない、と言う結論まで辿り着く。
そう言った経験や考察を重ねている内に気付いてしまった。
実は『普通』が一番難しくて、異端なのでは無いか。
犯罪者なんてただ自分の欲望が抑えきれないだけだし、地位や名誉や栄光なんてものは、言うなれば自己満足に過ぎない。キチガイじみた自分が本当に辿り着くべきは、誰もが頭に思い浮かべる『普通』の人生だったのだ。果たして、これが自称異端や異常者たちに出来るだろうか。普通ってなんだよと逆ギレするのが関の山だろう。
私は私好みの極々平凡な相手を見つけて、付き合う事にした。当たり前のことを当たり前にこなし、当たり前のように相手を大切にした。もちろん裏切るような真似なんてしなかったし、普通に喧嘩もしたが、平凡な家庭を築いて、そして平凡な一生を終えた。
究極の異端とは、普通だったのだ。
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