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神様・悪魔・幽霊・妖怪・おばけ、これらの「見ることの出来ないもの」を
僕は同じものと見ている。人間だっていろんな奴がいるんだ。
ただ、人間側にとってどういう存在であるかと言うことで
種類分けしているに過ぎない。

さて、見えるか見えないかということに重きを置いている人もいるが、
信じるか信じないかということが重要なような気がする。

その人に見えたとしたなら、幻覚だろうが幻聴だろうがきっと
その人にとっては存在しているのだ。その人に「視える」ということは、
確実に存在している証拠であると言えよう。

もし、存在しないのであれば、何故これらの「見ることの出来ないもの」に
姿形が定義付けられているのだろう?本当にそれは空想だけの産物なのだろうか?

大人になればなるほど、そういったモノに遭遇する機会は少なくなる。
それは得てして、現実にしか目を向けられなくなるからだと考察する。
つまり、それらのモノを見る余裕がなくなってしまうのだ。
これは人間にとって悲しいことではないだろうか。

インディアンをはじめとして、精霊はもちろん、先ほど挙げた様々なモノの
存在が当たり前の社会も存在する。それはもしかしたら幸せなことではないだろうか。

例えば、時間だって空気だって見ることは出来なくても存在している。
夢や心だって、実際には見ることが出来ない。
見ることの出来ないものを受け入れるというのは、
ある意味余裕を持って生きることに繋がらないだろうか。

何でも妄信するというのは感心できないけれど、
「妄想出来る余裕」は、常に持ち続けていたいものだ。
現実に飲み込まれる方が、よっぽど怖いからね。
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1987/01/14
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音楽鑑賞
自己紹介:
夢人に付き合わされた哀れな若輩者
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