完全フィクション
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
神様・悪魔・幽霊・妖怪・おばけ、これらの「見ることの出来ないもの」を
僕は同じものと見ている。人間だっていろんな奴がいるんだ。
ただ、人間側にとってどういう存在であるかと言うことで
種類分けしているに過ぎない。
さて、見えるか見えないかということに重きを置いている人もいるが、
信じるか信じないかということが重要なような気がする。
その人に見えたとしたなら、幻覚だろうが幻聴だろうがきっと
その人にとっては存在しているのだ。その人に「視える」ということは、
確実に存在している証拠であると言えよう。
もし、存在しないのであれば、何故これらの「見ることの出来ないもの」に
姿形が定義付けられているのだろう?本当にそれは空想だけの産物なのだろうか?
大人になればなるほど、そういったモノに遭遇する機会は少なくなる。
それは得てして、現実にしか目を向けられなくなるからだと考察する。
つまり、それらのモノを見る余裕がなくなってしまうのだ。
これは人間にとって悲しいことではないだろうか。
インディアンをはじめとして、精霊はもちろん、先ほど挙げた様々なモノの
存在が当たり前の社会も存在する。それはもしかしたら幸せなことではないだろうか。
例えば、時間だって空気だって見ることは出来なくても存在している。
夢や心だって、実際には見ることが出来ない。
見ることの出来ないものを受け入れるというのは、
ある意味余裕を持って生きることに繋がらないだろうか。
何でも妄信するというのは感心できないけれど、
「妄想出来る余裕」は、常に持ち続けていたいものだ。
現実に飲み込まれる方が、よっぽど怖いからね。
僕は同じものと見ている。人間だっていろんな奴がいるんだ。
ただ、人間側にとってどういう存在であるかと言うことで
種類分けしているに過ぎない。
さて、見えるか見えないかということに重きを置いている人もいるが、
信じるか信じないかということが重要なような気がする。
その人に見えたとしたなら、幻覚だろうが幻聴だろうがきっと
その人にとっては存在しているのだ。その人に「視える」ということは、
確実に存在している証拠であると言えよう。
もし、存在しないのであれば、何故これらの「見ることの出来ないもの」に
姿形が定義付けられているのだろう?本当にそれは空想だけの産物なのだろうか?
大人になればなるほど、そういったモノに遭遇する機会は少なくなる。
それは得てして、現実にしか目を向けられなくなるからだと考察する。
つまり、それらのモノを見る余裕がなくなってしまうのだ。
これは人間にとって悲しいことではないだろうか。
インディアンをはじめとして、精霊はもちろん、先ほど挙げた様々なモノの
存在が当たり前の社会も存在する。それはもしかしたら幸せなことではないだろうか。
例えば、時間だって空気だって見ることは出来なくても存在している。
夢や心だって、実際には見ることが出来ない。
見ることの出来ないものを受け入れるというのは、
ある意味余裕を持って生きることに繋がらないだろうか。
何でも妄信するというのは感心できないけれど、
「妄想出来る余裕」は、常に持ち続けていたいものだ。
現実に飲み込まれる方が、よっぽど怖いからね。
PR