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完全フィクション
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新しい事を次々と思い付いて始める事が出来てから、そのまま継続して上手く行く…なんて事が続くと、私は時折自分の色々な経験を振り返るようになった。

それは年齢を重ねて結構な妙齢になってしまったと言えばそれまでなのだが、何よりも今現在が充実していて、心に余裕が出来たからだと言うのもあるのかもしれない。

そう言えば思い出し笑いをする事も多くなった。

「なんだ誰か死ぬのか」

と友人に縁起でも無いツッコミを入れられたものだが、もしそうであるなら、私自身が死ぬことになるのかなと思いついて、一秒後一笑に付した。一応は健康な状態を保てているので、今すぐにとは行かないだろう。

そんな事を考えていたら、私自身の色々な経験や体験を書き留めておきたいなと思うようになった。日記は付けているけれど、行動を記しているだけで、自分自身の考えや感じた事を書いている訳では無い。

それこそ思い付く全てを書き記していたら取り留めのない文章が無限に生まれ出でる事にはなるし、キリが無いのかもしれないが、何だか自分の生きて来た足跡を何らかの形で残しておきたくなったのだ。それは生きている以上終わる事は無いだろうし、ゴールの無い旅路になる事だろう。

だがそれは自分にとってとても意味のある事のように思えた。誰かに読んでほしいと言う訳では無く、ただ自分の為だけに、ひたすら文章を残しておこうと思ったのだ。

一度思い始めるといてもたってもいられなくなり、とにかく思いつく限りの文章を書き留めて行った。それは実に楽しく、相手の反応を窺う事も無く、自分自身がニヤニヤする為だけのある人種にとってはとても無意味な事なのだろうが、個人的には非常に意味のある事だと実感する事が出来た。

書き留めて行くと連鎖反応で次から次へとネタが湧いてくる。自伝を書く人間の気持ちが何だかわからないでも無い気がした。ただこれは自伝と言うにはあまりにもまとまりの無い物だったが、書きながら自分なりに時系列順に並べて行くと、自分の歴史が出来上がって行くようで、思い出が形になるようでどんどん楽しさは増して行った。

忘れたいことだってもちろんあるのだが、幸か不幸かそういう事に関してはあまり覚えていないし、いちいち思い返したくないものを掘り返して思い出す必要性も感じられないかった。

ただの自己満足ではあるけれど、楽し過ぎる作業だ。何事も無い幸せな毎日に、新しい趣味を見つけてしまったのだった。
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毎日、繰り返し繰り返し。私は何度も同じ作業を繰り返していた。

始めた頃は熱意自体持っていたものの、燃え盛る炎は繰り返して行くうちに小さくなって、あっという間に火は消えてしまったのだと実感している。

もちろん繰り返しと言っても全てが同じな訳では無い。自分の中でも成長したとか、進化したとか、経験を積んだとか、色々言い換えられるようなものはあるけれども、結局は大筋で見ると同じ事の繰り返しである事は否めない。

同じになってしまっている事に嫌悪感を覚える事もあった。飽きない様に様々な工夫をした。周りからもワンパターンと思われないように。もちろん私自身から見てもだ。

しかしながらそれもいつしかどうでも良くなってしまった。意味の無い事であるとは思わないし、これが私の仕事なんだろうと自分に言い聞かせて、どこか自分の中で諦めにも似た納得をするようになった。

幸い受け入れてくれる人はたくさんいる。それが私にとっては幸せな事だと思ったし、感謝の気持ちがあるから頑張れたし、同じ事の繰り返しを続ける事が出来た。そしてそれは私の生きると言う事への証でもあるのだと思うようにした。

ある日突然繰り返しが嫌になってしまった。見るのも聞くのも心を濁すようになった。始めてからずっと続けて来た繰り返しを止める事にした。すると、たくさんの人が悲しんでくれた。惜しまれながら止める事になった。愛されていたのだと改めて実感した。裏切るようで心は引き裂かれるような想いに駆られたが、それ以上に嫌になってしまった心が元に戻る事は無かった。仕方のない事なのだと思うしか無かった。





そしてしばらくして。私は違う事を始めてみた。それはとても楽しかったし新鮮だった。毎日が新しい事の連続で、止めて良かったと実感するようになった。

しかしそれも長くは続かなかった。新しい事もいつしか繰り返すようになって、結局はそうならざるを得ないのだな、と悟った。諦めて何度も繰り返して、ふとした時に以前やっていたことが懐かしくなった。もう一度始めよう。バラバラになったものを少しづつ集め始めた。





時間はかなり掛かってしまったが、以前の繰り返しをもう一度始める事にした。同じようで同じには感じられない景色。あの時感じていた感覚はもう二度と味わえないのかと思うと、少しだけ寂しくなった。驚いたのは、たくさんの人が待っててくれていたのだ。

私の幸せはここにあったのだと、再確認した。
ある程度時間が経つと、あなたは何事も無かったように声を掛けて来る。私に断わられるのはわかっているはずだよね?それとも反応がもらえるのが嬉しいのかしら。

あなたは今でも、私との思い出にすがって生きているのね。私はこんなにも先に進んでいると言うのに。もうあなたは過去の人。私の中では終わっているのよ。

どうして謝りもせずに許してもらえると思ったのかしら。何が悪いのかわからないままに謝った事はあったわね。それともまるで自分には見当も付かないと、しらばっくれて通用するとでも思ったのかしら。そうだとしたらあなたは本当に卑怯でせこい人ね。自分のプライドを守るのがそんなに大切なのかしら。あなたのプライドなんて、とっくの昔に何の役にも立たない程粉々になって意味の無いものに成り下がったと思っていたけど。本当に気持ちが悪いわ。

裏切って信用を失うと言う事は並大抵の事では取り戻す事なんて出来ないのよ。いいえ、一生取り戻せないものなの。様々な周りの人たちの信用を失って、それでもまだ自分がまともな人間だとでも思ってるのかしら。チャンスはいくらでもあげたわよね。きちんと謝る事が出来なかったと言う事実が、あなたと言う人間の低俗さを証明しているわね。もうチャンスなんてあげないわよ。今までいくらでもあったでしょう?でもあなたは、謝る事よりも恥をかかない方を選んだ。だから今後一切、あなたにチャンスなんてあげないわ。その事自体教えてあげない。

大体そんなこと言わなくてもわかる事でしょう。自分が何をしたかの事の重大さをきちんと理解出来ていればわかるはずよ。それが出来ていないと言う事は、猿でもできる反省すら出来ていないと言う事。あなたは表面上でいくら取り繕っても、その程度の人間なのよ。そんな事は微塵も思っていないのかもしれないけど。

惨めね。悲惨で、とても醜いわ。そして見苦しくて、二度と会いたくないと思わせる。もう全ては途切れてしまったの。おしまいよ。コンテニューも敗者復活戦も、現実にはありえない事なの。特に人間関係の、信用問題においてはね。

とても長い間、仲良く出来ていたから、あなたが裏切った時には本当に落ち込んだわ。でも冷静になって考えれば、あなたと言う人間がそういう事をするような人間だとわかり切っていた事よね。何も驚く事なんて無い。あなたはそういう人間なんだから。

今後あなたと会う事は、もう無いの。永遠に、さようなら。
私は自殺をしようと思っている。

それも出来るだけ確実に、苦しまない方法が良いのかもしれない。首を吊るにはむごたらしい死にざまになりそうだし、何より決断が出来ないかもしれない。そして苦しいであろう事は容易に想像がつく。

何処かを傷付けて失血死する事も考えたのだが、傷つけると言う事はまず痛いと言う事だろうし、何より自分から流れ出る血を見たり感じたりと言うのは、想像しただけでうすら寒く背筋が凍るような思いをする気がするのだ。

電車に飛び込むとなんだかたくさんの人たちに迷惑が掛かるし、万が一助かってしまったらさらに大変で苦しい状況に追い込まれるであろう。手足の一本ぐらいは持って行かれているだろうからね。

毒薬なんかもってのほかで、致死量で死ねるかもわからないらしい。酷い時は胃腸が受け付けなくて吐き出してしまう事もあるそうだ。そうなってしまうと胃洗浄などをされて入院生活を送る事になるかもしれない。恥を晒す様で辛い。

それなら睡眠薬を…なんて考えたけど、結果は毒薬とそう変わらないような気がする。

何か確実な方法は無いか。何か確実な…。資料を読み漁って出て来たのが、極寒の真冬の雪山で睡眠薬を飲むと言うもの。確かにこれなら後で動物に遺体を食べられたりするかもしれないが、とりあえずは綺麗な死に様にもなりそうだし、凍死の要素も追加で確実性が高い気がする。

そしてさらに調べ進めて行くと、睡眠薬のオーバードーズには、酒と一緒に少量ずつ摂取すれば、胃腸が驚く事も無く成功した事例があるのも見つけ出した。なるほど。これなら雪山でも温かい中で死んでいく事が出来るし、酒を飲みながらゆったりと死んでいくのはなかなか心地良さそうだ。

もうひとつ。もうひとつ何か確実性を増すものが欲しい。胃腸が拒否反応を起こさず、緩やかに死へと迎える方法のとどめが欲しい。決定的なパズルの最後の1ピース。

それは意外な所に存在していた。ふと思いついて冷蔵庫を開けると、中に入っていたのはヨーグルト。薬を飲む時に水では無くヨーグルトに混ぜて食べる人間もいるらしい。酒に睡眠薬にヨーグルト。これなら拒否反応を起こす確率も減りそうだし、酒を先にすれば、多幸感と温かさの中で無理なく死んでいけるような気がする。用意するのもそれほど苦労しないし。

こうして最後のとどめとなったパズルの1ピースは、誰もが入手出来る健康食品でもあるヨーグルトだった。後は死ぬだけだ。
私はきっと近いうちに殺されてしまうだろう。

この場所には悲壮感が漂っている。中にはそういう奴もいるかもしれないが、私は何一つ悪い事はしていないし、ここにいるほとんどもそうなのだと思う。しかしここには、自分の力ではどうにも出来ないのを悟っているのか、皆諦観の眼差しでその時を待っている。

ひとつ言えば元いた家を飛び出して、飼われる事から離れて家も無い根無し草でいた事が悪い事だと言うのだろうか。自然のあるべき姿が罪だと言われるなら、随分傲慢な人間もいたものだと思う。

いつも来る人間に連れて行かれると、泣き叫ぶものもいれば、全てを受け入れたのかおとなしく連れて行かれるものもいる。不思議なのが、神の救いなのかは知らないが、いつもと違う人間に連れて行かれる時は何やら嬉しそうなのが気になった。そういう奴らは殺されずに済んでいるのかもしれない。ここから出れない私には、その違いが良く理解出来ていないのだが、皆の反応を見ると、そういう事なんだろうと思う。

大勢がこの場所に収容されている。それぞれが会話を交わす事は無い。この先に死があるとわかっているだけに、気が気で無かったり、話してしまうと恐怖が溢れ出て来てしまうのであろうかわからないが、とにかくその時を静かに待っているような気がする。

毎日連れて行く人間の顔を見ると、何とも言えない表情をしている。悲しみなのか、諦めなのか、謝罪なのか…全てがその表情に込められているような気がしてならない。

私もその時を静かに待つ。騒いでも仕方が無いと言う事を、皆の反応や表情を見て知っているからだ。この場所に来てすぐに皆その事を悟るようで、私の後に入ってきた奴も、誰も質問したりなどしない。繰り返す様だが、自分の運命をある種受け入れ、諦めて、ただただその時を待つばかりなのである。

果たして私の運命はどちらに傾くのであろうか。どちらであったにしても、甘んじてその運命を受け入れようと思っている。そして私の勘なのか、何だか今日は私の番が来るような気がするのだ。何かのドアが開く音がする。何とはなしに皆聞き耳を立てる。人の気配。どうやら私の番が来たようだ。





環境省の統計資料「犬・猫の引取り及び負傷動物の収容状況」によると、年の犬猫を合わせた殺処分数は10万匹を超える。そしてその約半数が幼齢個体である。返還数と譲渡数は合わせて5万匹、約3分の1は救われ、3分の2は殺される運命にある。
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